特集「熱海・スナックと私」では、市内の経営者にお薦めのスナックを紹介してもらいながら、これまでの人生やこれからの経営ビジョンなどを伺います。聞き手は、熱海経済新聞副編集長でボイストレーナー「たーなー先生」としても活動する田中直人です。
これまで、江戸時代から160年以上続く老舗干物店「釜鶴」5代目の二見一輝瑠(ひかる)さん、1806年創業の老舗温泉宿「古屋旅館」17代目の内田宗一郎さんに話を伺いました。今回は、「宇田水産」社長の宇田勝さんにインタビューしました。宇田水産の社長を務めるほか、熱海魚市場の代表や熱海第一ビルの役員を務める宇田さん。3回に分けて、宇田さんのこれまでの取り組みや思いについてお伝えします。
これまでの記事
――1軒目に選んだスナック「エンジェル」について、魅力などを教えてください。
宇田 季節の果物がお通しで出てきます。ママのサービスと、この果物が魅力のスナックです。
ママのサービスが魅力
――まずは宇田さんの生い立ちや家業ついて聞かせてください。
宇田 実は生まれは熱海ではなく、東京都大田区の田園調布です。祖父は熱海で漁師と魚屋をやっていたのですが、父は魚屋をやりたくなかったので東京に出て一旗揚げようと板前になりました。祖父は熱海魚市場の設立に関わりました。魚市場ができる前は、市内の旅館などは築地から貨物列車で運ばれてくる魚や、地元の網元から買い取った魚を使っていたようです。
生い立ちを語る宇田さん(右)
――いつ宇田さんは熱海に来たのですか。
宇田 父が熱海に戻ってきた時には、既に祖父は魚屋を廃業していたのですが、父が再び魚屋を始めました。私が5歳の頃、1967(昭和42)年の話です。場所は起雲閣の前、現在のクラフトジン蒸溜所の横辺りでした。
その後、現在の起雲閣裏の駐車場の前に移転するのですが、当時あの周辺にスーパーの長崎屋や商店が立ち並んでいてかなり栄えていました。うちの魚屋の前はバスも通っていました。なので、魚屋も結構もうかっていたみたいです。
あの時代、子どもは親の手伝いをさせられていて、小学校4、5年生の頃ですが、レジ打ちや新聞紙で魚を包んでお客さまに渡すことをしていました。
――子どもの頃から魚は好きだったのでしょうか?
宇田 魚は本当に嫌いでした。特に刺し身は食べなかった。食べられたのは、エビフライ、アジやエボダイの干物くらいでした。魚を触る度にせっけんで手を洗っていて、従業員には「それでは魚屋になれないよ」と言われていました。
――その後について教えてください。
宇田 これはあまり人には言っていないのですが、私が小学5年生の頃、父の魚屋が他の魚屋に吸収合併されて副社長になりました。その魚屋を運営していたのが暴力団幹部の人で、結局私が中学2年生の頃に乗っ取られてしまいました。自宅を建てる予定の土地も全て取られてしまったようです。
子どもだったのでそれほど気には止めなかったのですが、それでも当時、白いご飯も食べられず、母が小麦粉を練ったお好み焼きをよく作っていて、うちはお金がないのだということは分かっていました。姉は高校生に上がった頃で、制服が新品ではなく、近所の人からもらったものだったので恥ずかしかったと、今だから私には言います。
現在、子ども食堂などに魚の寄付を続けているのは、食べたい時に腹ペコだった記憶があるからです。子どもたちは食べることがすごく楽しみなのに食べることができないのがかわいそうで、食べ物でできることがあるならと、続けています。
コロナ禍にウナギを寄付したことがありました。それが新聞に掲載されたことで、あなたからウナギを買いたいと結構来てくれたことがあり、その気持ちがとてもうれしかったです。
「マル暴」で元熱海警察署長からは、こういう体験は伝えていってほしいと手紙をもらったこともあり、今回話をさせてもらいました。
地域貢献を続ける宇田さん
――小学生から中学生の頃に大変な思いをされたということですが、それ以降について教えてください。
宇田 父はセミの抜け殻のようになり、全く仕事をしなくなってしまいました。ただ、母の実家が漁師だったため、ある時に干物の網をもらってきて、熱海で干物屋を始めました。また長崎屋の近くだったので、干物はよく売れて、途中からまた魚屋を始めました。
中学はバレー部で、日大三島高校からも声がかかっていました。でも店がつぶれたばかりで私立に行きたいと親には言えなかったので、(公立の)熱海高校にしました。熱海高校はヨット部に入ったのですが、なぜかというと、入学早々、たばこを吸っていることがバレてしまい、ヨット部の顧問から、ヨット部に入れば見逃してやると言われ、入部することになりました。
新入部員は40人くらいいましたが、トレーニングが過酷で、気がつくと5人になっていました。辞めるに辞められなくなったというのもありますが、熱海から唯一全国大会に行けるのがヨット部だと思い、頑張ることにしました。
私立に比べて県立高校はお金がないので、船はボロく、セールは古い。でも顧問に「お前たちは日本で一番練習している」と言われ、正月も寒い日も毎日練習していました。インターハイは全国20位くらいでしたが、国体では8位でした。大学は、ロサンゼルスオリンピックの代表選手がいた関東学院大学に行ってヨットをやりたいと思っていました。たくさんの大学からスカウトが来ていたのですが、残念ながら関東学院大学からはスカウトがありませんでした。それを学校の先生から関東学院大学に言ってもらったところ、入れてくれるという話になりました。それを聞いた同級生が、自分も関東学院大学に入りたいと言い出しました。成績が良かった私は一般受験でも入れるだろうということで、彼が推薦で進学することが決定。前年の競争率が0.81だったので、一般受験でも余裕で入れると思っていたのですが、その年の競争率が3倍になっていて、結果、落ちてしまいました。
もう仕方ないと思いながら、他の大学は受けていなかったので、取りあえず就職しないといけない。3月19日に不合格発表があったので、自力で就職先も探せない。親は「大学のお金がかからないからラッキー」みたいな感じで、小田原の魚屋に修業に出ることになりました。住み込みなのでお金もたまるので、たまったらアメリカに留学に行こうと思っていました。
でも、23歳の時に方向転換しようと思い、当時高校の時から付き合っていた彼女と結婚しました。それが23歳の時でした。小田原の魚屋は2年で辞めて熱海に戻ってきました。
――熱海に戻ってきてからのことを教えてください。
宇田 当時の宇田水産は家族経営で、従業員はいませんでした。その時の夢は、2トン車に乗って小田原の市場に買い出しに行くことでしたが、それはすぐにかないました。
――宇田水産が伸びたのはどのようなタイミングからでしょうか。
宇田 グッと会社が伸びたのは、長男が戻ってきてからです。会社を継ぐとは思っていなかったですし、4年制大学を出て魚屋なんて継がせるか、勝手に生きろと思っていました。保険会社などに内定をもらっていたようですが、そちらには行かず、(宇田水産直営の飲食店)「まぐろや」でバイトをして、そのままうちに就職したのが15年ほど前のこと。長男は、今は「まぐろや」と魚屋の両方をやっています。
――ここまでありがとうございました。では続きは次の店で伺いましょう。次回、中編では宇田さんの現在の話を伺います。
宇田さんお薦めのスナック「エンジェル」について
開業 1989(平成元)年4月
ママ 坂本利子さん
席数 30席
営業時間 18時~24時
住所 熱海市中央町10-7
電話 0557-81-5989
「エンジェル」は地元で長く愛されるスナックです。広いソファ席ときれいに装飾された店内は、居心地よく過ごすことができます。音響設備が充実し、カラオケを楽しむことができます。「果物なら飲んだ後でも気持ち良く食べてもらえる」というママの優しい思いで、お通しに季節の果物が出てくるのも魅力の一つです。
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聞き手 田中直人